第八節 四診―望(神)、聞(聖)、問(エ)、切(巧)

四診とは望、聞、問、切をいふ。漢方の診察法は物心両面を一如と受取り、修練せる直観にてその病情を把握せんとするにある、自然のまゝの相を経験的に累積した知識をもつて彼我一体の境地に立つて把握せんとするにある。 こゝに正確なるを直観力を作る為に修業を唯一の手段としたことは先哲のきびしき求道心、はげしき修練に見ることが出来る。 亀井南冥が「医は意なり意といふものを会得せよ、手にもとられず、書にもかゝれず」「論説をやめて病者を師とたのみ、夜に日を継いでエ夫鍛錬」と云ふも皆修業の方法を示すものであり、和田東郭が「古人の病を診するや、色を望むに目を以つてせず、声を聴くに耳を以つてせず、夫れ唯耳目を以つてせず、故によく病応を大表に察す、古人の病を診するや、彼を視るに彼を以つてせず、乃ち彼を以つて我となす、共れ既に彼我の分なし、是を以つて能く病の情に通ず」と至言である。 望診は望んで、聞診は音声を聞いて、問診は病者の言ふところを聞いて、切診は触診によつて病情を知るのであるが、どれも、これも、練磨せる直観力によつたのであつた。分析を総合しての判断ではなく、古典の特徴である全体をそのまゝ把握せんとする態度である。この為にはたゆまざる精進がいるのである。古先哲はこれをやリ途げたのであつた。

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